書活

本を読んで「思い」をつづります

教わらない資本第一主義

 ★★★★★

【熱量】
我が子に向けて書かれていることもあり熱いものを感じます。

世の中は「資本家」と「資本家に雇われて資本家を儲けさせるサラリーマン」に分かれる。

先日、ZOZOの元社長前澤さんの1000億円記帳動画を見ました。前澤さんは今後の人生においてさらに稼ぐと想定すると、生涯賃金の差はサラリーマンの1000倍以上になります。2、3倍のレベルではなく桁が3つも違います。
前澤さんと普通のサラリーマンが能力差で1000倍以上あるとは思えません。しかし、生涯年収は1000倍以上の差が生まれるのです。

資本主義はまさに資本家のためにあります。サラリーマンがいかに搾取されているのかもわかります。このことはいろいろな書籍に散々書かれていますが、未だにサラリーマンから脱してあちら側に行けない人が多数です。知らないということもありますが、知っていても行き方がわからないということもあります。

現実的にはやるか、やらないかの差しかないのかもしれませんが、小さな頃から学校で、サラリーマン(雇われる側の人間)になるために教育されてきて、ほとんどの人が既定路線でサラリーマンになります。慣れ親しんだ世界からの移動は人に恐怖を与えます。そこから外れる恐ろしさは尋常ではないです。また、人と異なる動きはストレスがかかります。人の特性をうまく利用し、サラリーマン製造システムがうまくできているとしか言いようがありません。

そもそも名前が「資本」主義というネーミングです。明らかに資本家至上主義にも関わらず、資本家になる教育はされていませんし、資本家教育は現状では完全にレールから外れる行為になります。少なくともレールから外れることを身内からは完全否定されます。

ただ、ある一定のレベルまでの基礎学力は詰め込み型の方が良いです。基礎的な学力がないと話にならないが、やり過ぎると現存する答えを探すことしかできない人間になってしまいます。高校までは詰め込み教育を行い、大学からは資本家教育に切り替える必要があります。

就職活動ではできるだけ大企業、有名な会社に就職しようとみんなががんばっています。
それが一番よい選択しであるという共通認識を持っています。
生涯年収が1000倍以上も違うのに、安い給料で雇われて資本家を儲けさせる側になる方を選ぶのです。そこそこの企業であれば企業間の生涯年収の差は2倍もありません。しかし、資本家との差は1000倍以上です。
1000倍以上も差があることを知らないということもあるでしょう。大学を卒業するときにそこまで知らされておらず、会社に勤めて20年や30年して気づく、あるいは気づかない人もいます。ただ、気づいたときには住宅ローン、子供の教育費が圧し掛かっており、資本家からすれば1000分の1以下の給料しかなくてもその場から逃れられない状態にサラリーマンはうまく追い込まれています。資本主義社会(資本家至上主義)が世の中の正解とし機能しています。そしてサラリーマンは資本家を儲けさせる人生を全うすることになります。

では、なぜこのことが問題とならないのか?
大多数の人が資本家の1000分の1以下の給料で贅沢はできないがそこそこの生活ができ、そのまま生涯を終えるため大きな問題になっていません。お金のことを考えなくてよいほどの裕福さはないが、それなりの生活ができているのでいいかとなっています。

このあたりは資本家がうまくシステムをつくっています。また、役職というステータスで給料以外でも満足感を与えています。役職よりも資本家の100分の1(給料)の方がよっぽどいいです。

サラリーマン大多数の認識は、資本家になる人はすごく特別な才能があり、ごくごく稀にしか発生しない運がよい成功者でハイリスク・ハイリターンという認識でいます。
本当にそうでしょうか?
資本家の数が少ないので特別感はありますが、資本家とサラリーマンで才能に特別と言えるほどの差はないです。

精神を病むほど低賃金で働かされるサラリーマン、365日休みなく事業のことを考えなければならない経営者とでは辛さは変わらないかもしれません。しかし、喜びは経営者の方が圧倒的に大きくなります。経営者と資本家は同一の場合もありますが、基本的には異なります。資本家になれば365日休みなく考えるということからも解放されます。経営者を選ぶのは資本家ですが、事業の運営は経営者に任せることができます。資本家が一番よいということです。

では、どうすれば資本家になれるのでしょうか?

才能はあるのに見つけることがむずかしい

手紙屋 蛍雪篇〜私の受験勉強を変えた十通の手紙〜

★★★★★

【後天性】
魚も木登りで判断されたら才能がないとなる。

「なるほど」です。

あとから努力して身につけた能力も才能です。
人は「先天的」な能力を才能と呼んでいるようですが、ここに食い違いが発生しています。

 

ギフテッドのように「脳力」がある者、ウサイン・ボルトのように「瞬発脚力」がある者、マラソン選手のように「心肺能力」がある者、建築家のように「空間認識能力」がある者、芸術家のように「美的能力」に長けた者、人それぞれに才能はあります。しかも、先天的な能力ではなく、後天的に得た能力もあります。

才能はすべての人が持っているものというのは理解できます。

 

ただ、その人にその能力があるというのはどのようにして見つければいいのでしょうか?
いろいろ試して、できないものは捨て、できそうなものだけを選ぶという方法もありますが、最初はうまくいかなかったことが、しばらくしたら、できてくることもあると思います。この場合、初期にできなかったがために選択肢から排除してしまうことになります。
また、しばらくはしていなかったけど、久しぶりにしたら何かうまくできることもあります。

 

また、どの時点で見切りをつければいいのでしょうか?
ミュージシャンを目指してがんばったが、いっこうに芽がでないためあきらめた。プロ野球選手を目指したが2軍どまりで一軍には入れなかった。社長を目指して会社に入ったが課長どまりとなった。そのようなことはよくあります。ただ、いつあきらめるかはむずかしいです。
「あきらめずにやり続ければできないことはない」と願いたいですが、現実はそうではありません。その分野で能力が発揮できない人はあきらめるか、最後の手段として、死ぬまでやり続ける長寿戦略しかなくなります。長寿戦略も簡単ではないのでほとんどの人はあきらめることになります。

 

時代が恐ろしい速度で変化している今は、少しだけ試して目が出なかったらすぐに方向性を変える方が正解なのかもしれません。
いろいろなものに手を出して結局、何も身についていないことになる可能性もありますが。。。

何かをはじめたら「中の上」ぐらいになるまではやってみることが重要だと思います。そこまで達しないと結局、ゼロに戻ってしまいます。何もしなかったことと同じ状態に戻ってしまいます。
いろいろ手を出すことはいいのですが、一度、手を出せば「中の上」になるまではそれに没頭することが重要だと思います。

しかし、「中の上」までになろうと思えば、結構時間がかかるのではないかと思われがちですが、没頭し寝ても覚めてもそのことばかりを考えていると、意外と早く「中の上」に到達するのではないかと考えます。
「中の上」に到達したところでこのまま続けるか、あるいは違うことをはじめるかを判断すればいいと思います。そこまで行けば、違うことをはじめても今までやってきたことが、ゼロになることもなく無駄になりません。

長い間続けているのに芽が出ない人は、そのことに従事している時間が短いように思います。年数的には長いのですが、他のことをやりながらそれも続けており、集中投下できていない状態になっています。

また、芽が出ない理由の一つにアウトプットの量が少ないということもあると思います。アウトプットをするためにはインプットも必要になってきますが、十分にインプットしているのに芽が出ない場合は、アウトプットが少ないと言えます。アウトプットをすれば何らかの反応があります。もしくは全く反応がありません。その反応に基づいて修正を繰り返していけば、いいものができあがってくるはずです。しかし、アウトプットをしていないと、この反応を得ることができませんし改善もできません。

 

こう考えると「没頭能力」、この能力さえあれば、あとは何とでもなりそうです。
この没頭する状態というのは、子供のころはみんな持っていたように思います。

 

今回、たまたま坪田さんの『才能の正体』と喜多川泰さんの『手紙屋 蛍雪編』を同時並行で読みましたが、ここでは喜多川泰さんの『手紙屋 蛍雪編』を推奨します。
10年以上前に出版された本ですが、坪田さんのおっしゃる「才能」を明確に表現されています。

 

才能の正体 (NewsPicks Book)

ギフテッド 脳力の違い

太陽を創った少年:僕はガレージの物理学者

★★★★☆

【脳力】
少年は没頭できるマニアですが、オタクぽくはありません。
コミュニケーション能力が高いマニア、完璧です。

少年は没頭力が尋常ではなく、没頭して結果を出しています。しかも、ものすごくスピード感があるので没頭から結果までが短く、途中リタイアがないので達成感を次から次へと味合うことができています。しかもすごいところは内容のレベルが高いということです。常に前へ前へ進んでいる感があります。

最近あまり没頭できないように思いますが、昔はある程度没頭すればそれなりに結果が出たので満たされ感があったように思いますが、最近はちょっとやそっとの没頭では結果までたどり着けない状態です。したがって途中であきらめてしまい、達成感を味合うことができてないように感じます。(私事)

 

達成感
この達成感を比較的簡単に得られるのが、長距離走と山登りです。
ラソンに代表される長距離走はやることはすごくシンプルで特殊な技量を要しません。ひたすら足を交互に動かすだけで、それが何時間も続くだけです。誰でもできる動作で、特殊な練習もなくすることができる動作です。後はひたすらがまんして続けるだけで達成感を得られます。
途中で膝が痛くなる、ふくらはぎ、足首、股関節が痛むなどの故障が発生しなければ、誰でも簡単に味わえる達成感です。
ラソンをする人には少なからずこれがあると思います。すごいことは到底できないが、簡単なことを繰り返しているだけ(本当は繰り返しをつづけることも難しいのですが)で達成感を得ることができます。
この達成感というものは、正直ものずごく気持ちいいものです。

サッカーやテニスのようにある程度練習をしてからでないと達成感を味わえないものとはことなります。
こんな言葉はあまりよくないですが、「バカ」でもできるものです。ちなみに、わたしも10kmマラソンを走ったりしています。こんな簡単に達成感を味わうことができて、まわりからも少しだけ「すごーい」のまなざしで見られ優越感に浸れるものはありません。この達成感の気持ちよさが脳にこびりつき、やめられなくなるものだと思います。

ただ、本当にすごい人は単純な作業をひたすらすることで達成感を得るのではなく、単純でないことで達成し、達成感を得て、また新しいことにチャレンジして達成し、どんどん達成感を満たしていきます。これができるこの少年もすごい人です。凡人のように単純なことを繰り返しているだけの行動ではものたりない人だと思います。
凡人には簡単にできることを繰り返し行うようなことでしか、達成感を味わうところに到達できません。

ここに差があると思います。本当にすごい人は長距離も走りませんし、山登りもしません。もっと楽しく達成感を味わえることが目の前に存在しており、本当に達成してしまうのです。

 

脳力
スポーツは出来不出来により、早い段階(小学生あるいはその前)からクラス分けをされるのですが、学術的能力(脳力)で分けることはしません。それをしてしまうと批判が殺到します。大学受験になり、やっとどの大学に受かるかで差がでますが、それまでは差をつけないようにしています。

脳の出来不出来は、身長が高い、低いの遺伝よりも遺伝確率が高いと聞きます。そうすると産まれた段階でどうあがいても脳のレベルでは勝てないことになります。出来のいい脳、悪い脳が産まれた瞬間に決まっているということになります。ただ、それを言ってしまうと身も蓋もないので言えないということです。
ただ、脳のレベルが高い、低いは脳の処理能力の高さを示すものだと思いますので、処理能力が低い人は何もできないということではありません。

処理能力が高いコンピュータが何でもできるわけではないのと同じです。
処理能力が高いコンピュータでも、野球やサッカーもできませんし、鬼ごっこすらもできません。油絵を描くこともできませんし、絵を見て感動もできません。小説を書くこともできないし、話をして人を笑わせることもできないのです。しかし、恐ろしく処理速度は速いということです。

人が他の動物と異なる優れた部位、それが脳みそです。人は足が速いわけではなく、腕力が強いわけでもない、空を飛べるわけでもない、鋭い牙も生えていない、嗅覚が優れているわけでもなく、毒も持っていない。しかし発達した脳みそを持っています。それが最大の武器になります。その武器を活用することにより他の動物を抑えて生物界の頂点に立っています。
同じ種族の範囲でも足の速いチーターもいれば遅いチーターもいます。首の長いキリンもいれば短いキリンもいます。一番の武器も個体差があります。人もその最大の武器である脳レベルが高い人と低い人がいても不思議ではありません。

 

天才の幸せ
天才の中の天才は数学者と言われますが、必ずしも幸せではありません。天才的脳を持っている数学者は100年先を思い描いています。残念ながら100年先のことを説明されても、凡人には全く意味が理解できません。そして天才数学者は誰とも意見が合わず孤独になります。孤独になって一人でも全然問題ないという人もいますが、世の中と全くかみ合わない、誰一人理解してもらえない孤独は耐え難いものがあります。
インターネットやSNSが存在する現在では世界中に発信するすべがあるため、昔に比べれば理解してもらえる確率が高まっていると思います。世界中に発信できれば一人ぐらい理解してくれる人がいるかもしれません。一人でもいれば、まだ孤独感はなくなるのですが、飛び抜けた天才数学者の場合、世界中の誰一人共感してくれる人がいないこともあります。極度の孤独に襲われ、精神が壊され早くして亡くなって行きます。
脳レベルが高くても幸せになれるとは限りません。

この少年もギフテッドに値するとは思うのですが、ギフテッドにも幅があります。変な言い方ですがギフテッドの範疇に入るが、その中の下の方が一番丁度いいような気もします。

 

(ギフテッドにほど遠ーーーい人間が言うな!)

美しいと思える心

 

世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか? 経営における「アート」と「サイエンス」 (光文社新書)

 ★★★★☆

【静少単】
美意識だけで、経営はできないと思いますが、最後の決断は美意識だけで決めていいです。

日本人は付加より除去の美意識は高いと感じます。
イタリアなどは付加の美がすばらしいですが、日本人はできるだけそぎ落としたシンプルなものが得意なように感じます。シンプル イズ ベストとよく言いますが、日本人の美的感覚にはシンプルな方が向いていると思います。

ブランド力という別の概念もありますが、車の場合マツダの車は正直、美しいです。ブランドというバイアスがなければ、マツダのマークがついていなければ、もっと売れてもいい美があります。
車はもう美の領域に入っています。カッコ悪いが性能のいい車、美しいが性能がそれほどよくない車であれば見た目が美しい車が売れます。
中身が同じならということをよく聞きますが、中身は劣っても外見がいい方が売れてしまいます。

テレビ、レンジ、炊飯器、洗濯機もデザイン重視になるともっといいと思います。バルミューダの炊飯器、トースターやブルーノのホットプレートなんかデザインがいい感じです。いずれもプロデュースは日本です。日本もかなり変わってきたと感じます。
ラップトップパソコンはまだまだかっこよくできそうです。Macよりかっこいいものをつくれそうです。スマホiPhone4s以上に美しいものが出てくれば最高ですが。。。

最近、やっと食器やスプーンなども美しくないと使いたくないと思えるようになってきました。美意識が高まってきました(笑)
以前はできるだけ安いものをつかえばいいと思っていましたが、年を取ったこともありますが、なんでもいいわけではなく、こだわりを持ち始めています。(やっかいなはなしですが・・・)

日本人は「静」「少」「単」の美意識では世界に負けないものを持っていると思います。
欧米的な美的感覚に流される必要はありません。日本的な「美」で押すべきです。
芸術の世界では日本人も世界に通用する能力があります。しかし、企業プロダクトのように大人数で製作するものには「美」の能力が発揮されていません。
これは村主義、護送船団方式が少なからず影響しているように感じます。また、日本の社会は出る杭は打たれるので、一人で完結する芸術では発揮できても、企業では発揮できないことになります。

フェラーリのデザイナーはその車のデザインを一人で任され、途中で会議などにかけられ批評されることがないそうです。最後までひとりのデザイナーに任されるそうです。
そのかわりそのデザインした車が売れないとそのデザイナーは契約を打ち切られるというわかりやすい体制になっています。
デザインをみんなであーでもない、こーでもないと会議にかけてしまうと、全く魅力のない普通のデザインになってしまいます。

デザインはみんなで話し合うものではないということです。
日本車にもこの「みんなで話し合って決める」が現れています。マツダ以外は。

デザインはそもそも独りよがりなものです。
一人の人間が決めなければ成り立たない代物です。みんなの意見を反映し角を取り除いていけば、既存のデザインと変わらない、何の変哲のないものができあがります。

家電もすでにデザインの世界に入っています。日本の美意識を埋め込んだ製品をつくればいいのです。「なんか日本プロデュースの商品ってかっこいいね」と言われるようなりたいです。
イタリアなどはデザインに傾倒しすぎて信頼性がおろそかになっているように思いますが、日本は多機能、信頼性に傾き過ぎです。

アートはサイエンスに論理ではかなわないので、みんなで会議をして説明しても無駄です。独断と偏見で説明せずに完成させるしかないのです。
あとは市場に送り出し、売れればオッケー、売れなければそのデザイナーは退場、それだけです。
「美」は説明ができないので、会議をしてみんなのコンセンサスを得て、リスクを分散し、連帯責任にはできません。その意味では非常に厳しい世界です。

美意識は普段から鍛えておかないと、突然、美を求められてもいいものができないことになります。

三流が所持する既得権

劣化するオッサン社会の処方箋~なぜ一流は三流に牛耳られるのか~ (光文社新書)

 

★★★★★

【かわいそうな年代】
わたしは50代、60代ぐらいの年齢になれば、どの世代にも発生する病気のように思っていましたが、そうではないようです。

現在の50代、60代で発生している劣化状態ということです。

確かに最近10代、20代が起こしそうな事件、不祥事を50代、60代が起こしています。年長者は経験豊富だから尊敬しなければだめだと教えられてきましたが、すべての年長者が尊敬に値するとは思えません。

小さな積み重ねですが、毎日少しずつでも努力を重ねて生きた人間と何十年もあまり物事を考えずに生きてきた人間では10年、20年経つと大きな差になって現れます。
今の50代、60代はあまり考えずとも生きていける上り調子の時代を過ごして来ました。

上からの抑えがなく自分がやりたいようにできる団塊の世代が先頭をきり、道を築きました。そのあと今の50代、60代がそのレールに乗った状態で成長したと推測できます。別にそれが悪いということではなく、今の50代、60代はそういう時代を過ごし、苦労しなくてもうまくいく時代であったということです。苦労せずにうまくいくのに、わざわざ苦労をする人間は逆に頭がおかしいと言えます。

ただ、時代は変化します。ひと昔前でも10年経てば社会は変化しています。特に最近は変化の速度が速いです。5年もすれば全く違う世界が現れている時代です。予想不可能な時代です。

60代でよくキレている人を見かけますが、その気持ちもわからなくもないです。いままでと同じようにやってきたのに、この何十年と同じことを同じようにやってきたのに、なぜ最近うまくいかないんだ!このイライラがつのりキレてしまうのです。
さらに、やっかいなことにその年代は年功序列で既得権が与えられており、それなりに敬れて生きてきました。しかし最近、時代に背を向けられているように感じてしまうのです。
時代の変化に対応できていないということですが、変化が恐ろしく速いので無理もないと思います。

もともと時代は複数の人を渡り歩きながら変化するため、一人の人が時代の先端を担う時間は短命です。ある人が一時期担い、次はまた別の人が担います。一人の人がずっと時代を牽引するわけではないのです。ここに時代の方が人よりも変化する速度が速い理由があります。
しかし、最近この変化が速すぎるため、時代の変化に頑張ってついていく訓練をしていない年代は厳しです。変化に対応する筋力が備わることなく成長してしまっていますので、いまからではその筋力をつけることがむずかしいです。それが、今の50代、60代になります。

しかし、時代の変化速度が加速しているので、普段から変化に対応することを鍛えている20代~40代でも、その速度に着いていけない人も発生してきます。50代、60代に比べれば少ないかもしれませんが、振り落とされる人は増加傾向にあると考えます。
ただ、今の50代、60代のように年功序列で既得権を得ることもできないようになりますので、キレる三流の暴君も産まれなくなります。
権力がない人が吠えても「老害」にはなりません。ただ、負け犬が吠えてるだけで、誰も相手にしないし、相手にしなくてもこちらが不利益を被ることはありません。見て見ぬふりをされるだけです。

単純に年齢を重ねていることが、尊敬に値する時代は過ぎてしまいました。

団塊の世代は人口でボリュームゾーンであり、上の人間がいない状況でした。彼らは上から文句を言われることなく先頭を走り、しかもそれを支える同年代の仲間が一番多い状態です。
上がいないというのは改革を起こすという点においては非常に恵まれた状況です。好きなようにできます。したがって、国内の政治・経済は団塊の世代を中心に動いてきました。そして、いまだに既得権を死守している人が多数います。
ただ、先輩方に意見を乞うことはできないので、自ら創りだしていく苦労はあったと思いますが、楽しかったと思います。羨ましいです。

しかし、もう70歳になります。いい加減引退願います。いつまでも居られては次世代をダメにしてしまいます。

若い人材を全力でサポートする側に回ってください。

60代でも時代の変化に敏感な人はスマホSNSを使いこなし生き生きとしています。こういう人はキレる老人に比べれば圧倒的に「カッコイイ」です。

 

変態が活きる時代

 

 死ぬこと以外かすり傷

★★★★★

今や正しいレールは無くなりました。


塾で習うことをいっしょうけんめいに詰め込み、意味を理解せず丸暗記して、いい大学へ行って、一流企業に就職するレールが必ずしも正しいということはなくなっています。
いや、正しいのは正しいのですが、正しいレールがそれだけではなくなっているという方が正確だと思います。

レールは無数にあり、
なんでもできる、何をやってもいい。
どこからでもいいという感じです。

しかし、なにをやってもいい代わりに突き抜ける必要があります。
その分野のそこだけは誰にも負けないマニア、変態にならなければならない厳しさがあります。

 

昔はただのマニアで、それで飯が食えるというものではありませんでしたが、今は情報の拡散力がスピード・範囲共に尋常ではないので、その道の第一人者、No.1だけが突出して注目される構図になっています。

ニッチな世界で市場が極小でも世界中から注目されれば、人ひとりぐらい十分に飯が食えます。
また、どんなものでもニーズがゼロということはありません。

 

これが好きなことだけをしていても暮らせる根拠になります。

 

しかし、極小の守備範囲でも誰にも負けてはいけないルールがあります。
No.1しか注目されません。No.2では注目度ゼロに等しいです。
日本一高い山は「富士山」、日本で二番目に高い山は「???」と同じことです。また、伝搬速度も恐ろしく速く、しかも世界規模です。

 

誰にも負けない必勝方法は、自分一人しかやってないことをやる。
それです。
自分しかやってないことであれば、負けることはないのです。
ライバルがいないところで戦う、
いや、戦う必要がないのです。
ブルー・オーシャンを見つける、
いや、創るのです。

 

問題は突き抜けるほどハマれるかどうかです。誰でも好きなことの一つや二つはあると思いますが、寝食を忘れてまでハマれるかどうかです。

これは脳みそのつくりによるところがあると思います。そういう状態になれる脳みそを持っているかということです。

没頭できる脳みそを持っている人は、これからの時代、何をやっても生きていけます。 
わたし自身も結構のめり込み、凝り性な方だったのですが、最近どうも凝り具合が弱いように感じています。

確かに昔はハマると一日中そのことを考えていたように思います。寝る前なん
かは妄想が止まらなくなり、寝付けなくなることがよくありました。

最近はなんか簡単に寝つけているような気がします。

いかんです。

また、ドハマりするものを見つけたいと思います。
その気になれば簡単にハマってしまいそうですが。。。

ハマれる人間はこれからの時代、そのハマったものだけをして生存でき、それなりの社会的地位も得ることができます。

昔でいうマニア、オタク、変態が変な目で見られるのではなく、逆に尊敬される時代の到来です。
いまでもマニア、オタク、変態本人の幸福度は高いと思いますが、これからは評価値も上がり、さらに幸福度が高くなります。

 

局所的に突き抜けた人が幸せに暮らせる時代です。

仕事をする必要はない

★★★★☆

【不可能な予測】
基本、いわゆる「仕事」なんてしなくていいです。
「仕事」は機械がするものです。

ずっと言っていますが、この考え方はわたしの中では不変です。

AIが仕事をするようになると、仕事という概念がなくなるのではないかと思っています。

仕事をしないと食べていけないと洗脳されている人だけが、いやいや仕事をしている状態の社会に変化すると考えます。
しばらくは、いやいや仕事をしている人と好きな仕事(これは仕事とは呼ばなくなるかもしれませんが)をしている人に分かれると思います。

この好きな仕事だけをしていても問題なく食べていけるということが認識できれば、認識できた人々からいやいやする仕事なんかはしなくなります。

好きなことをして暮らせることが実感できれば、そこが分水嶺になるのですが、これはやってみないと実感できません。
今現在の仕事に縛られる時間が長いので、好きなことをする時間がないという人もいますが、大抵の人は普通に食事もして、睡眠も十分に取っています。食べることも忘れ、睡眠時間も削って好きなことに没頭しているという人はめったにいません。

経済的自立ができれば(本当はできていなくてもいい)、仕事という罰を受けた代償として給料をもらう必要もなくなります。

また、経営者側も今は人を労働力として雇っていますが、機械が労働力になってくれれば機械を設置して労働力として使います。

 人件費 vs 機械費

この比較だけの問題です。機械の導入コスト、ランニングコストの方が安いのであれば、まともな経営者なら人を雇うことはありません。

 


会社でふとまわりを見てみる。。。

 

自分もそうですが、会社で残業時間にまわりを眺めてみると不思議空間です。必死にパソコンに向かうもの、必死に電話をしているもの、必死に書類を凝視しているもの、みんなドMです。
どれだけ自分の気持ちに反して仕事をして、自分を痛めつけているのですかね。

職場のまわりを見てみると、なんでみんな仕事しているのか不思議な状態に映って見えます。
「責任感」「義務感」「仕方なく」「なんとなく」「やらなければならない」「仕事があたえられるから」「怒られるから」
冷静に見るとなんか不思議な空間に見えます。
仕事を楽しんでいる感じはありません。

 

「仕事」ってなんだと考え込んでしまいます。

 

懲罰的な考え方で苦しいことをした代わりにお金をもらうのが仕事でしょうか。全員ではないでしょうが、苦しそうに働いています。
それで何をしたいのでしょうか。
ただただ言われるがまま作業をしているとしか思えません。

 

みな盲目的にがんばって、当たり前のように会社に就職しますが、
そのレールは楽しいレールでしょうか?
みんなが乗るからそのレールに乗ってしまうだけではないでしょうか?
いろいろ考える時間・余地を与えられないということもありますが、

一旦就職してからでもいいので、
一度、脳みそを使ってじっくり考える必要があります。(←自分に言っている)