書活

本を読んで「思い」をつづります

美しいと思える心

 

世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか? 経営における「アート」と「サイエンス」 (光文社新書)

 ★★★★☆

【静少単】
美意識だけで、経営はできないと思いますが、最後の決断は美意識だけで決めていいです。

日本人は付加より除去の美意識は高いと感じます。
イタリアなどは付加の美がすばらしいですが、日本人はできるだけそぎ落としたシンプルなものが得意なように感じます。シンプル イズ ベストとよく言いますが、日本人の美的感覚にはシンプルな方が向いていると思います。

ブランド力という別の概念もありますが、車の場合マツダの車は正直、美しいです。ブランドというバイアスがなければ、マツダのマークがついていなければ、もっと売れてもいい美があります。
車はもう美の領域に入っています。カッコ悪いが性能のいい車、美しいが性能がそれほどよくない車であれば見た目が美しい車が売れます。
中身が同じならということをよく聞きますが、中身は劣っても外見がいい方が売れてしまいます。

テレビ、レンジ、炊飯器、洗濯機もデザイン重視になるともっといいと思います。バルミューダの炊飯器、トースターやブルーノのホットプレートなんかデザインがいい感じです。いずれもプロデュースは日本です。日本もかなり変わってきたと感じます。
ラップトップパソコンはまだまだかっこよくできそうです。Macよりかっこいいものをつくれそうです。スマホiPhone4s以上に美しいものが出てくれば最高ですが。。。

最近、やっと食器やスプーンなども美しくないと使いたくないと思えるようになってきました。美意識が高まってきました(笑)
以前はできるだけ安いものをつかえばいいと思っていましたが、年を取ったこともありますが、なんでもいいわけではなく、こだわりを持ち始めています。(やっかいなはなしですが・・・)

日本人は「静」「少」「単」の美意識では世界に負けないものを持っていると思います。
欧米的な美的感覚に流される必要はありません。日本的な「美」で押すべきです。
芸術の世界では日本人も世界に通用する能力があります。しかし、企業プロダクトのように大人数で製作するものには「美」の能力が発揮されていません。
これは村主義、護送船団方式が少なからず影響しているように感じます。また、日本の社会は出る杭は打たれるので、一人で完結する芸術では発揮できても、企業では発揮できないことになります。

フェラーリのデザイナーはその車のデザインを一人で任され、途中で会議などにかけられ批評されることがないそうです。最後までひとりのデザイナーに任されるそうです。
そのかわりそのデザインした車が売れないとそのデザイナーは契約を打ち切られるというわかりやすい体制になっています。
デザインをみんなであーでもない、こーでもないと会議にかけてしまうと、全く魅力のない普通のデザインになってしまいます。

デザインはみんなで話し合うものではないということです。
日本車にもこの「みんなで話し合って決める」が現れています。マツダ以外は。

デザインはそもそも独りよがりなものです。
一人の人間が決めなければ成り立たない代物です。みんなの意見を反映し角を取り除いていけば、既存のデザインと変わらない、何の変哲のないものができあがります。

家電もすでにデザインの世界に入っています。日本の美意識を埋め込んだ製品をつくればいいのです。「なんか日本プロデュースの商品ってかっこいいね」と言われるようなりたいです。
イタリアなどはデザインに傾倒しすぎて信頼性がおろそかになっているように思いますが、日本は多機能、信頼性に傾き過ぎです。

アートはサイエンスに論理ではかなわないので、みんなで会議をして説明しても無駄です。独断と偏見で説明せずに完成させるしかないのです。
あとは市場に送り出し、売れればオッケー、売れなければそのデザイナーは退場、それだけです。
「美」は説明ができないので、会議をしてみんなのコンセンサスを得て、リスクを分散し、連帯責任にはできません。その意味では非常に厳しい世界です。

美意識は普段から鍛えておかないと、突然、美を求められてもいいものができないことになります。